次の伝説までのあいだ何が(1987~1991年)

1987年

元日の天皇杯決勝で読売クラブが優勝。約1週間後の高校サッカー選手権決勝では静岡・東海大第一がアデミール・サントス選手を擁して初出場初優勝、前年秋からの日本リーグは読売クラブが優勝した。
前年のW杯メキシコ大会で、スーパースターの座を不動のものにしたマラドーナが1月、ゼロックススーパーサッカーに南米選抜の一員として来日、日本リーグ選抜と対戦、左足を痛めていながらも日本中のファンを魅了した。 マラドーナ率いるSSCナポリは、86ー87シーズン、イタリアリーグを悲願の初制覇、カップ戦と2冠に輝いた。
12月のトヨタカップでは大雪の中、FCポルトが勝った。

1988年

元日の天皇杯決勝で読売クラブが連覇、読売クラブは1月に行われたアジアクラブ選手権決勝にも勝って優勝した。約1週間後の高校サッカー選手権では前回大会と同じカードを長崎・国見高校が制し小嶺監督の名が全国に知れ渡った。
この年はソウル五輪が開催された年で、日本は、韓国がいない東アジア地区予選で、中国に勝てば20年ぶりの出場権獲得までこぎつけたが、雨の国立競技場での試合に敗れた。五輪本大会のサッカーでは、決勝でソ連に敗れたものの大会得点王となったブラジル・ロマーリオが脚光を浴びた。
一方、?88欧州選手権では、オランダがマルコ・ファンバステンのスーパーゴールで初優勝した。
6月には、ゼロックススーパーサッカーにマラドーナが昨年に続いて来日ナポリの一員として、奥寺選手率いる日本代表に勝利した。
さらにこの年は、のちのJリーグ創設に尽力する川淵三郎氏が、日本サッカーリーグ総務主事に就任、1991年の社団法人設立まで、獅子奮迅の活動に入った時期でもある。

1989年

元日の天皇杯決勝で日産自動車が優勝、10日後の高校サッカー選手権決勝では三浦文丈選手、藤田俊哉選手を擁する清水商が優勝、数日前、昭和天皇が崩御されたことから、テレビ中継ではCM自粛方針のもと、ハーフタイム時に音楽だけが流れる珍しい放送となった。
前年秋からの日本リーグは、日産自動車が優勝、天皇杯、カップ戦を合わせ三冠を達成した。
この年、高円宮杯全日本ジュニアユース選手権(のちのU-15ユース大会)と日本女子リーグ(のちのLリーグ、なでしこリーグ)が始まった。
海外では、南米選手権(コパ・アメリカ)でブラジルが優勝、ベベット、ロマーリオ、ドゥンガなど94W杯を制するメンバーが主力だった。
12月のトヨタカップにはオランダトリオで欧州を制したイタリア・ACミランが来日、怪人GKイギータに苦労しながらも延長で制した。

1990年

世界は、W杯イタリア大会で沸いた年。決勝は前回大会と同じカードとなったが、今回は西ドイツが雪辱。 開催国イタリアは、救世主スキラッチバッジョなどの活躍もあり面目を保つ3位となった。
12月のトヨタカップには前年に続きイタリア・ACミランが来日、マルコファンバステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトのオランダトリオが世界のサッカーファンを魅了、パラグアイ・オリンピアを破った。国内では元日の天皇杯決勝で日産自動車が連覇、日産は前年秋からの日本リーグ、カップ戦も制し、2年連続三冠を達成した。
夏に行われたコニカカップは、JSLカップ戦にスポンサーが初めてついたもので、この年は日本ユース代表や五輪代表も含めたリーグ戦形式だった。この大会は、ブラジルで成功を収めたカズ選手が、日本でプレーするため帰国して、読売クラブの一員として初参戦した大会でもありのちにナビスコカップに継承された。

同じ夏、高円宮杯全日本ユース選手権(のちのU-18ユース大会)が前年のプレ大会を経て始まり名波浩選手率いる清水商が優勝した。日本代表はというと、この年から創設されたダイナスティカップ(東アジアのナショナルチーム戦)に参戦するも3連敗、秋のアジア大会(五輪のアジア版・開催地北京)には、読売クラブのラモス選手、カズ選手を初召集するも準々決勝で敗退。有能な選手を使いこなせない代表監督問題というテーマが浮き彫りになった時期でもある。
一方、同じアジア大会に出場した女子代表チームは銀メダルを獲得した。

1991年

元日の天皇杯決勝で、松下電器がPK戦を制し日産自動車の3連覇を阻止した。 約1週間後の高校サッカー選手権決勝は、九州勢対決となったが国見が鹿児島実を延長の末振り切り二度目の優勝を飾った。
2月、プロサッカーリーグ発足に向け参加10チームが正式発表された。日本リーグ二部の住友金属(のちの鹿島アントラーズ)や、日本リーグに参加していない清水FC(のちの清水エスパルス)などのサプライズがあった一方、日立製作所(のちの柏レイソル)、ヤマハ発動機(のちのジュビロ磐田)などが落選、明暗を分けた。

前年秋からの日本リーグは、読売クラブがぶっちぎりの優勝を遂げプロリーグ発足を前に、読売、日産2強時代を印象づけた。
なかなか国際試合で勝てなかった日本代表は、キリンカップで初優勝を飾った。 ブラジルの名門でベベト、ビスマルク(のちヴェルディ、アントラーズで活躍)らのヴァスコ・ダ・ガマ、イングランドリーグの名門でゲーリー・リネカー(W杯メキシコ大会得点王、のちJリーグスタート時に名古屋グランパスでプレー)を擁するトッテナムホットスパーを破っての優勝だった。この時の日本代表は、攻撃陣をカズ、ラモス、都並、新加入予定の北澤豪選手などの読売クラブ勢が占め、このあと数年、日本代表の攻撃をけん引していくことになる。 ちなみに、この時のユニフォームは赤で、この年まで3年ほど着用したもの。

夏にはプロリーグ参戦予定の住友金属にブラジルの至宝ジーコが加入、すでに引退しており年齢も38歳とはいえ、世界的名選手が、日本のしかも弱小クラブに入団したということで、日本はもとより世界のサッカーメディアが取り上げるニュースとなった。
女子日本代表は、この年行なわれたAFC女子アジアカップで準優勝、秋の第一回女子W杯に、木岡二葉選手、長峯かおり選手、高倉麻子選手、野田朱美選手らを擁して出場、予選リーグで敗退するも男子より一足先にW杯を体感した。


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